【短考】いい短歌とはなんだろう?
「いい短歌とはなにか?」というのは繰り返し語られるテーマですよね。
それもそのはず。
何故なら、短歌をつくる人の多くは「いい短歌をつくりたい」と思って短歌をつくっているわけですから。(たぶん)
今日も僕のTwitterのタイムラインではそういう話題で盛り上がっていました。それぞれの短歌観から「いい短歌」を語っていて興味深かったです。
ただ、もう少し論点が整理されていればより有意義なのになあとは思いました。
ということで今回の記事ではそのあたりの交通整理をしてみようと思っています。
# 尚、このエントリーを書こうと思った最大の動機は、
# 一旦ここで自分の考えをまとめておかないと後々のエントリーが書きづらいなあと思ったからです。
# 従って「Twitter上の特定の意見について反論したい!」といった意図はまったくありません。
# どれも興味深い意見だったし、きちんと自分の意見を述べる人のことはリスペクトしています。
# 以上、無用な誤解を生むと嫌なので念のため。
ではゆるゆるとはじめますよー。
■誰もが認める「絶対的な秀歌の要件」は定義できるか?
あらためて問いをたててみると議論するのも馬鹿らしいくらいですねー。そんなの「できない」ですよね。
この問いよりはだいぶ条件が緩い「誰もが認める秀歌は存在するか?」という問いでさえ「存在しない」と答えるのがまあふつうの感覚だと思います。
このように問い直せば火を見るより明らかなことが、「いい短歌とはなにか?」という議論をしている最中では往々にして忘れられてしまうことがいつも不思議だし、そのことがフラストレーションを感じる大きな要因のひとつだったりします。
では、どうして「いい短歌とは」という議論をするときになると、そんな馬鹿げた前提を置いて持論を展開してしまうのでしょうか? それともそう見えるだけなのでしょうか?
そんな疑問を頭の片隅に置きつつ更に考察を重ねてみます!
■すべての短歌には「良し悪しの差」もないのか?
「絶対的な秀歌の定義ができない」のだとすると、自然と浮かぶのがこの疑問だと思います。
先ほどの問いに比べると議論の余地がありそうですが、個人的には「良し悪しの差」はあるという立場ですし、たぶんほとんどの人もその立場に立つのではないかと思います。
たとえば、歌会とか歌集とかでいくつもの短歌が並んでいた時に、「こっちの短歌のほうがずっといい」と判断した経験はみんなあるでしょうし、判断できるということについての確信もありますよね。
この感覚はとても重要で、もしこの点を無視すると、「みんなちがってみんないい」みたいな際限のない相対化が行われた果てに「いい短歌なんてないんだ! ラララ」みたいな極論に行きついてしまいがち。
いや、もしかしたら究極的にはその認識こそが正しいのかもしれないですが、実用的には無意味だし、極端な相対化は自分を甘やかす方向に働きがちなので、「いい短歌をつくりたい」と思っている人は、その論理に逃げることには注意したほうがいいと思います。
では、「良し悪し」に差があるとしたら、それはなにが決めるのでしょうか?
■相対的な短歌の良し悪しは「短歌観」によって決まる
結論をいうとそれは「短歌観」によって決まるのだと思います。
ここで言っている短歌観とは、たとえば「写実性」であったり「韻律」であったり「詩的美しさ」であったり、「短歌において何を重要と考えるか」くらいの意味です。あとは「何のために短歌をつくるのか」といった目的意識も含みます。
そしてこれもあたり前なことですが短歌観は人によって違います。
ある人にとっては「写実性」がいい短歌の条件だし、別のある人には「韻律」がいい短歌の条件だし、「わかりやすさ」や「共感力」がいい短歌の条件だという人もいる。
最初に「相対的な良し悪しは短歌観によって決まる」と言いましたが、さらに付け加えると、「作品に優劣がつけられるのは同じ短歌観で作品を評価することが有効な場合に限られる」というのが僕の考えです。(いわゆる「Apple to Apple」というやつですね)
西巻さんのブログ記事のいちばん良いところは自身の批評の有効射程に自覚的なところだと思います。読み手がその有効射程と自分の立ち位置を意識することで「受け流していい指摘」と「受け止めるべき指摘」が区別できて有意義な示唆が得られるのではないでしょうか。
— 短歌ウルフR(eturns)さん (@tankawolf) 11月 23, 2012
以前このようなツイートをしましたが、まあ同じようなことです。「有効ドメイン」と言ってもいいですね。
逆にいうと、有効ドメイン外にある作品を、有効ドメイン内にある作品と同列に比較はできない(≒意味がない)わけです。
この点に無自覚な人が多いのも、フラストレーションを感じる要因のひとつだったりします。
# 誤解のないように補足すると、
# そのことに自覚的でありながら、
# それでも自分の信じる短歌観を妥協せずに主張することは尊敬すべき態度だと思っています
■異なる短歌観のあいだで優劣はつけられるのだろうか?
次に浮かんでくるのが、「異なる短歌観のあいだで優劣はつけられるのか」という疑問ですが、これはこれまでの問いよりずっと議論の余地が大きい感じがします。
個人的には優劣をつけるのは難しいのではないかと思いますが、「いい短歌とはなにか」というTwitter上の議論においても、つまるところは「自分の短歌観の優位性」を主張しているわけだし、近代以降の短歌史は、それぞれの短歌観こそが至高であると言い争ってきた歴史でもあるわけで、「短歌観はみんなちがってみんないい!」みたいに単純に相対化してスッキリできるような根の浅い問題ではないのかもしれない、という気もします。(まあイデオロギー論争とは全てそういうものかもしれませんけど・・・・・・)
ただ、そうはいってもリンゴとミカンはそのままでは比較できないことは確かで、意味のある比較をしようと思ったら「果実」みたいな上位概念でくくる必要があると思います。
この記事の最初のほうで、
誰もが認める「絶対的な秀歌の要件」は定義できないことは明らかなのに、
議論の中ではそんな馬鹿げた前提を暗黙的に置いて持論を語ってしまうのは何故か?
ということを疑問として提起しましたが、それ対しては、
自分の短歌観が相対的に優れていることについての確信があって、
それは実は上位概念に基づいた根拠ある比較なのだけれど、
議論の中でその上位概念が明示されていないので、
受け手からは「絶対的な価値観を前提として持論を語っている」ように読める。
(結果として価値観の押しつけに見えてしまう)
ということではないかと推察しています。
ちなみに、異なる短歌観を比較できるような上位概念が存在するかについては、時々目にする「そんなのは短歌ではない(キリッ)問題」にも関わってくる気もするし、そのことについての考えもないわけではないのですが、もうちょっと考えてみたいので、それについてはいずれまた。
■最後に自分の短歌観について
自分の短歌観というか、いい短歌の要件というか、評価基準がなにかというと、「どれだけ感動できるか」とか「自分の魂に必要か」とかいう抽象的な感覚だったりします。
それはもうあえてそうしています。
自分の魂にとって必要な短歌だと感じられれば、それが文語だろうが口語だろうが、
仮名遣いがどうであろうが、定型だろうが破調だろが、写実派だろうが浪漫派だろうが、広がりがあろうが作品内で完結していようが、意味がつきすぎだろうが比喩が通俗的だろうが、そんなことは関係ない。
そんなの結局のところ後付けの理屈に使われる諸要素に過ぎない。
少なくとも、その作品に限って言える一度限りの理屈にはなれても、一般化して他の作品に適用できるような理屈にはならない、と考えています。
# もちろんこれは極論で、
# 実用的なレベルに一般化する程度のことは可能だと思います。
# それでも、それは「短歌をつくる方法論」としてのみ有効だという気がします。
もちろん好みの作風と言うのはあるし、実用性を考えてもその好みは無視できないけれど、傾向としての好みにしか過ぎない特徴を「いい短歌の条件」と言い切ってしまった瞬間に、そこから外れるけど、ほんとうは自分の魂が求めている作品に対して、自分自身で扉を閉ざしてしまうことになると思っています。
短歌について語る時も、短歌を読むときも、そして短歌をつくる時も、そのことは忘れようにしていきたいです。
ではまた。
【補足】
とか言いながら、あらゆる作風に対して魂をフルオープンにする必要は必ずしもないと思っていたりもします。そのあたりのこともいずれ。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)