« 2014年2月 | トップページ | 2015年3月 »

2014年9月の3件の記事

2014年9月28日 (日)

【短考】短歌における私性と虚構について考えてみた

8772562939_3f23f2a252_z_2
Some rights reserved by Wally Gobetz
こんばんは。僕です。
今回は長いです。

そして文体が「だ・である調」です。
本当は「ですます調」に直したかったのですがご容赦を・・・。


■はじめに

タイムラインで虚構の是非についての議論が盛り上がっていた。 「短歌における虚構」についてはもちろん、その議論の鍵となる「私性」についても、全然理解できていないので、わかる範囲で整理してみた。整理した内容を踏まえる形で、議論のきっかけとなった件についても見解を述べているが、それ以上の意図はないことはあらかじめ断わっておく。
 
この記事の目的は、以下の素朴な疑問について、底は浅いとしても、考えをさらに深めることのできる、明快な一次回答を示すことである。 
  1. 私性とは何か?
  2. 私性と虚構とはどのような関係にあるのか?
  3. 虚構が問題にされることがあるのは何故か?
尚、この記事では、ふだんのスタイルとは異なり、脚注を多用している。その意図は、発展的な議論の呼び水とすることだ。


■私性とはなにか?
*1


私性については、佐佐木幸綱さんの次の説明がわかりやすい。佐佐木幸綱さんは「一人称」と表現しているが、これを「私性」と読み替えても問題はないはずだ。

一人称詩とは、一言で言えば、私小説のように作者が自分を主人公にして、自分の思いや行為を表現するという意味である。作中の<われ>=作者<われ>が原則だというのだ。

歌は一人称だというイメージ、歌は作者名とセットだというイメージ、あるいは枠組みが伝統の中でかたちづくられ、認知されてきたからである。文字通り短い歌である短歌は、基本的に一人称詩として読まれるという前提があって、成立しているところがある。読者は一人称詩という前提に立って、作者は男だとか、作者の年齢はどれくらいだとか、想像したり、周辺情報を動員したりして作品を読み進む。

佐佐木幸綱 『万葉集の<われ>』 角川選書 2007年

また、以降の説明の見取り図として、斉藤斎藤さんがツイートしていた、私性についての説明を以下に引用する。

「A~Dを同一人物が担当する」ということは、作品内の出来事=Dが実際に体験したこと(ノンフィクション)と解される。おそらく、私性は、より広義(フィクションにおける私性、など)に捉えることのできる概念だと思うが、ここでは狭義の私性を取りあつかっていく。



■私性の効果


短歌において何故私性が重視されるのだろうか。それは私性の持つ効果にあるようだ。ここでは、私性の効果として代表的なものに説明を加えていく。

1.独自性の獲得

<私>という唯一無二のフィルターを通すことで独自性が生まれるという考え。第三十二回現代短歌評論賞を受賞した寺井龍哉さんの『うたと震災と私』を参照するとわかりやすいかもしれない。以下に参考になりそうな部分を引用する。

本来多様であるべき私性が封殺されているという意味での類型が引き起こされている(中略)作中主体と作者自身が概ね同定される前提で詠み、読まれる現代短歌では、単なる価値観の成立に前後して生じる葛藤や懊悩、鑑賞や諸々の感情が作品に対他的な独立性を与えるからである。

2.写生の実現

写生という短歌の方法論を実現するためには、その前提としての私性が不可欠であるという考え。斉藤茂吉の提唱した「実相観入」について考えてみると納得がいくと思うが、ここでは割愛する。

3.作品評価の底上げ

この記事で触れるべきなのはこの効果である。この効果は「私小説」というより「ノンフィクションドキュメンタリー」が持っている効果に近い。ある種の作品はノンフィクションとして読まれることによって読者に与える感動が大きくなる。写生の実現装置としての私性を重視する人たちからすると、この効果を強調されることには抵抗があるかもしれないが、個人的にはこの効果こそが、現代において私性が保有する最も重要な存在価値だと思う。

とはいえ、どのような作品であっても作品評価が底上げされるわけではない。そもそも、どのような作品であってもノンフィクションとして読まれるわけではない。それを整理したのが下の図である。縦軸は「ノンフィクションとしての読まれやすさ」*2、横軸は「ノンフィクションとして読まれた場合の作品評価への影響度」*3である。

Nonfiction_matrix_3
赤枠で囲ったBのエリアが「本当にノンフィクションなのか」が議論の的になるエリアといえる。同じBでも、右上にプロットされる作品ほど激しい議論を引き起こす。Bにプロットされる代表的な作品は「挽歌」「戦時詠」「病床詠」などだろう。


■虚構と私性との関連

私性とはノンフィクションであることを内包しており、虚構=フィクションとは相反する概念である。ある作品がノンフィクションであることで底上げ効果を得ているのであれば、それがフィクション=虚構ではないこと、虚構ではないと読者が信じられることは必須条件といえる。あるいは、それが虚構であるにもかかわらず、ノンフィクションとして読まれることを期待し、ノンフィクションを装うのだとしたら、それは佐村河内守的な詐欺行為とみなされる可能性は高い。


■前衛短歌運動との関連

前衛短歌運動とひとくくりにできるのだとすれば、その特徴は「虚構性」だ。つまり、狭義の私性から短歌を解き放って、より自由度の高い作品を目指したわけだ。その結果として、前衛短歌運動は私性=ノンフィクション性がもたらす効用を手放すことになる。

また、前衛短歌を通過したことにより、私性文学=一人称文学であることは短歌の読みの絶対ルールではなくなった、というのが現代短歌の常識的な見解である。

一九五〇年代に塚本邦雄が先駆して始発した前衛短歌運動にベースを置く現代短歌も、大幅に<無人称>の<われ>を取り込んでいる。作中の<われ>は、かならずしも作者とイコールではない、というかたちである。 (中略)
短歌を、<一人称><無人称>両方の<われ>がうたえる詩として作り、そう読む。作者と読者の関係をそのようなかたちで制度化したことによって、現代短歌は不倫もうたえるし殺人もうたえるようになったのである。

佐佐木幸綱 『万葉集の<われ>』 角川選書 2007年



■未だに混在する読みのモード

とはいうものの、現実には「フィクション読み」と「ノンフィクション読み」というふたつの読みのモードは混在している。というよりも、実際にはノンフィクション読みする人の方が、今でも多数派である*4。とはいえ、これは「フィクション読み」する人もいればそうでない人もいるという属人的な問題ではない。状況によって人は読みのモードを変えている、と捉える方が正確だろう。読みのモードに影響を与える要因はざっとこんものがあるだろう。
 
  1. 作品の性質(明らかにフィクションであるもの、どちらに読んでも影響がないもの、ノンフィクションに見えるものがある)
  2. 読者の傾向(ノンフィクションとして読む=私性文学として読むことが絶対ルールとして身についている人、フィクション読みを絶対ルールとして適用する人、混在している人)
  3. 場の性質(ノンフィクション読みが支配的な場かどうか、など)
 
ともかく、様々な影響を受けて、人は読みのモードを選択する。そして、現在でも「ノンフィクション読み」という読みのモードは少数派ではない。このことは「現実」として抑えておく必要がある。もうひとつ大事なことは、今述べたような要因のうち、1と3はある程度人為的にコントロールできるということである。このことは、読みのモードを作り手側がある程度コントロールできるということを意味していると同時に、完全にコントロールすることはできない=読みのモードは不確定であることを意味している。


■読みのモードに優劣はあるのか

そもそも読みのモードに優劣や正しさがあるのだろうか。

それは目的や価値観による、としか言えない。ノンフィクションに引きつけて作品の価値を高めるような読み方、読ませ方が駄目であると、いついかなる時でも言えるのかというとそんなことはない。それは、その逆もまた同様だ。

文学理論を学ぶことで得られる(数少ない)効用のひとつは、唯一絶対の正解となるような規範が存在しないことを明らかにしてくれることだ。それは、作者の意図を絶対視することが間違いであるのと同様に、コンテキストを完全に廃した透明な評価も幻想である、ということを示している。

つまり、何が正しいのかという価値判断は、判断基準が明確に示されていて、議論する人の間で合意されていない限りは、どこまで行っても単なる価値観のぶつけあいで終わってしまう。読みのモードの正しさに関する議論も同様だ。


■『虚構の議論へ』で取り扱っている問題についての見解

さて、以上の整理を踏まえて、議論のきっかけとなった問題について見ていこう。ここで「問題」といっているのは短歌研究10月号にて、加藤治郎さんが『虚構の議論へ 第57回短歌研究新人賞受賞作に寄せて』と題した特別寄稿にて取り上げている問題のことである。

この問題は事実としては、選考委員が「ノンフィクション読み」していた作品が、実際には(選考委員が信じるほどには)ノンフィクションではなかった、という話に過ぎない。しかしながら、作者の作歌姿勢を問うような加藤治郎さんの先の特別投稿を受けて、作者を擁護する反論が生まれ、現在では「選考委員の読みのモードに問題があった」のか「作者の側に読みのモードを誤らせる過失があった」のかという犯人探しの様相を呈してきている。

しかし、短歌の世界において、どちらの読みのモードを適用するのが正しいのかは確定できない、ということは既に述べたとおりである。(フィクションであることは見抜けた、という人もいるだろうが、見抜けないことはあり得る、という点をここでは重視している)

一方で、ある作品がノンフィクションとして読まれるかどうか、ということも作者には確定できない。「フィクション読み」されることを想定していた作者が、「ノンフィクション読み」されることで過剰な評価をされた場合、作者に(少なくとも100%の)過失があるとは言えないだろう。

従って、「どちらが悪いのか」ということはこの問題の本質ではないし、それ故に、犯人探しの先に、この問題の解決策が生まれることもあり得ない。*5

この問題の本質とは、「受け手と作り手の期待する読みのモードが確定しない以上、ギャップが生まれる可能性を排除しきれない」という仕組みにある。従って、本気でこの問題の再発を防止したいのであれば、「どちらの読みのモードが正しいのか」という議論をするのではなくて、現実としてどちらの読みのモードも成立することを前提として、期待のギャップが起きないようにするしかない。単純に言ってしまうと、読みのモードが確定できるようなレギュレーションを設ければ良い。*6*7*8

具体的には「フィクション部門」と「ノンフィクション部門」を分けるとか、ノンフィクションによるかさ上げ効果の影響を受けないように、フィクション読みすることを評価ルールにするなどの対応策があり得るだろう。(加藤治郎さんが主張するように、著者プロフィールを完全にオープンにするのもひとつの手だろう。対策として不完全な割には弊害が大きいように思うが)

もし、そのような対策を取らずに、あくまでもフィクション/ノンフィクションが定まらない読みのモードの不安定さに価値を認めるのであれば、今回のような問題(なのかこれはそもそも?)が起きた時に、仕組み上不可避の出来事として、誰かのせいにしたりせずに、粛々と受け入れるべきだと思う。*9

尚、あるべきレギュレーションについては新人賞が何を目的とするのかに大きく影響されるだろう。(純粋に作品評価なのか、有望な作者奨励なのか、私Dも含めた総合評価なのか)  *10*11


■まとめ

私性と虚構に関してこれまで述べてきたことをまとめる。
 
  1. 狭義の私性文学であることで短歌にはノンフィクションによる底上げ効果が発生する(場合がある)
  2. 短歌の世界では前衛短歌運動を経た現在でも「フィクション読み」と「ノンフィクション読み」が混在している
  3. どちらの読みのモードが適用されるかについては、様々な要因の影響を受けるため、読者も作者も確定することはできない
  4. 正しい読みのモードなるものは目的と価値観が共有された場でしか存在しえない
  5. 今回の問題は、正しい読みのモードが共有されていない以上、いつでも起き得る
  6. 再発を防止し、無益なつるし上げを避けたいならば、単にレギュレーションを設ければ良い
  7. どのようなレギュレーションを設けるべきかは、賞の目的による
 
最初に掲げた目的に引きつけてまとめると次のようになる。
 


1.私性とは何か?
 
私性とは、A=B=C=Dであることを前提とした作品が読まれることであり、それは性質というより状態に近い。また、私性はノンフィクションという性質を内包している。
 


2.私性と虚構とはどのような関係にあるのか?
 
私性とはノンフィクションであり、虚構=フィクションとは相反する概念である。
 


3.虚構が問題にされることがあるのは何故か?
 
虚構が問題にされるというよりは、(現代短歌においては)虚構の真実性が問題にされるというほうが正しい。虚構の真実性が問題にされるのはそれが作品の価値評価に影響を与えるからだ。ただし、影響の度合いは作品の性質によって異なる。ノンフィクションとして読まれやすく、ノンフィクションとして読まれることで価値が高くなるような作品ほど、真実性が問題にされやすくなる。逆にいうと、その反対の性質をもつ作品の真実性が問題にされることは少ない。



*



例によって、限られた知識のなかでまとめているので、「このあたりの議論も踏まえた方がいいよ」などのアドバイスがあればぜひ。

今回の記事によって、僕のようなライト短歌ファンの見通しが多少なりとも良くなればうれしいです。

ではまた。




人気ブログランキングへ



■脚注(もし興味があれば)

*1
私性とは何か? ということについてのクリアな説明を求めて、色々な資料にあたったが、これというものにはついに行きあたらなかった。
大体の言説においては、私性がなにであるかを明確にしないままで、私性に関連のある他のことを論じている。あらためて定義することもないくらいに共通理解がなされている用語だと信じたいが、そういうわけでもなさそうである。私性は、簡単に定義できない深遠な概念なのかもしれないが、そうだとしたら私性に関連がある他のことを論じる時には、もっと明確で、論じたいことに直接的に言及できる「ふつうの言葉」を使うべきじゃないかとは思う。
ちなみにこの記事では私性はノンフィクションという性質を導出するためだけに登場してもらう。虚構との関連をノンフィクションという性質との対比で示すためだ。

*2
「一人称ないし人称が省略されている」「取扱う内容が現実的に起き得る」「ノンフィクションであることに価値がある内容である」あたりがノンフィクションとして読まれやすい要件だろうか。

*3
ノンフィクションっぽいものが実はフィクションだったとわかった時(あるいは見抜かれた時)の価値評価に対する影響もざっくり2つくらいはありそうだ。(1)単に作品の評価が下がる(アラウンドかさ上げ分が低下) (2)価値評価が裏返る(好き⇒嫌い) 

*4
本当だろうか。年代差も大きそうである。

*5
ノンフィクション読みが正当であると確定することは可能だろうか? 特に新人賞のような場において? それが不可能であれば、(1)可能であるようなレギュレーションにする か (2)不可能であること前提に (2)-1 だまされることを許容する もしくは (2)-2 ノンフィクション読みをきっぱり廃するしかないのかもしれない

*6
この手の割り切った意見がコアな短歌の人たちに受け入れられにくいことはさすがにわかりはじめたマイレボリューション。

*7
ノンフィクションによるかさあげ効果を虚偽によって得るのはずるいという主張と同じように、実際に体験した壮絶な体験を作品として活かすことでかさあげ効果を得ようとしているのに、それをできないようにする読みのモードに固定するのはずるい、という主張も成立するのではないだろうか。
作品そのもので勝負しろ、というのはテキストを絶対視する立場においてのみ有効な正論に過ぎないし、それは理想論であって現実ではないという反論も有効だろう。(一方で、程度問題に過ぎない、という理解も重要)
となると、やはりレギュレーションで明確にする一手ではないだろうか。しかしその場合のフィクションとは何を指すのだろうか?(出来事?) またどの程度まで厳しく見られるのだろうか(黒い車と書いたが実際はグレーだったらOUTか?)
ということまで踏まえると、レギュレーションを示すことは現実的といえるだろうか? あるいは主要なモチーフ(父の死など)のレベルでのレギュレーションであれば現実的だろうか?

*8
そもそも読みのモードを完全に一致させることに血眼になるべきなのか、という疑問も残る。作品というのはそもそも色々な読まれ方をされる宿命にあるものだ。しかし、現実的に問題が生じていて、その問題が解決するべきものだと考えられているのであれば、きっちり原因を突き止めて、有効な対策を取るべきだ。

*9
もっと言ってしまうと、誰かがこの問題=セキュリティホールをついて、佐村河内守的詐欺行為を働いたとしたら、もちろんその作者に責任があることは間違いないけれども、セキュリティホールを放置しているという意味で、運営側も責任を免れることはできない、という話である。性善説にたって、作者の良識に委ねている限りは、悪意のある攻撃からシステムが守られていること=「正当な」作品評価が担保されていることは保証されないのである。

*10
Twitter上での意見にもあったが、
・読みのモードによって不当に評価を得ていたかということ、
・不当に評価を得ていたとして受賞に影響があったかということ、
・読みのモードを選考委員が間違えたことに関して作者に責があるのかということ、
 
は少なくとも分けて議論したほうが良いだろう。

*11
自分が作者の立場だったら、こういった出来事から何を教訓とするだろうか?
リスクを回避するためにフィクション/ノンフィクション読みを確定できるような作品づくりをするべきと考える?
最も理想的な回答は次のようなものなのかもしれない。
 
「どちらの読みのモードが採用されたとしても、他の作品を圧倒するレベルの作品をつくって、本当にノンフィクションなのかどうかなんてつまらないことが争点題にならないようにすべき」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月21日 (日)

【短考】短歌界を盛り上げるために短歌版トリプルミッションモデルを提案します

4675507282_844df6c734_z
Some rights reserved by Corin

短歌界を盛り上げるためには、組織的な取り組みが不可欠だと思っている。本来であれば短歌協会的な中央組織が推進すべきことなんだろうけど、幸か不幸か短歌にそのような中央集権的な組織はない。そんなわけで個人的に提案をしてみる。

そもそも、どうして短歌界を盛り上げたいかというと、それが作者である僕にとっても、読者である僕にとってもメリットがあるからだ。作者である僕が短歌をつづける目的というのは、ものすごく乱暴に単純化すると「承認欲求を満たすこと」だ。承認欲求を満たすためには、まず読者が存在しなければならない。短歌界が盛り上がって、読者が増えれば増えるほど、僕の作品と僕の作品の良い読者が出会う確率は高くなる。一方、読者である僕にとっては、読むことのできる作品の質が上がり、個人的嗜好に、よりマッチする作品と出会いやすくなればハッピーだ。これらはいずれも、作り手の裾野が広がることで自然と解決されるだろう。つまり、良いこと尽くしなのだ。今、自分事としてメリットを語ってきたわけだけど、このことは僕ではないあなたにとっても当てはまるのではないだろうか。

ところが、現状の短歌界はといえば、局所的&散発的なムーブメントは起きているものの、全体として大ブームが起きている状況からは程遠い。たまーに宝くじ的に発生するブームは、運が良ければ、遠くない将来に再来するかもしれないが、その機会を最大限に活かして、持続的なムーブメントに結びつけられる状況かといえば、かなり怪しい。それもこれも、組織的な取り組みが欠如しているからだ。

組織的な取り組みによってマイナージャンルをメジャージャンルに押し上げる試みというのは、他ジャンルでは普通に行われていることだ。その中でも、ここ20年で目覚ましい飛躍を遂げたジャンルに日本サッカーがある。その日本サッカーはトリプルミッションモデルという組織モデルによって駆動していたということもよく知られている。トリプルミッションモデルとは次のようなものだ。


6919b


引用 http://www.waseda.jp/student/shinsho/html/69/6919.html

詳細はリンク先を読んでもらうとして、このモデルは、短歌界の振興に援用することができると考えている。私案/試案ではあるが、短歌版トリプルミッションモデルを図式化したのがこちら。

Triplemissionmodel

勝利に相当するミッションには「プロ歌人」というミッションを配置した。要するに、短歌をつくることで生計を立てられるような、生業として成り立つ歌人の数と質を増やすということだ。プロ歌人や商業歌人という表現に違和感があれば「トップ歌人」と言っても構わない。短歌をつくる人たちのロールモデル/目標になる存在がいれば普及にも弾みがつくだろうし、短歌を読む人たちが喜んでお金を払うような存在が増えれば、市場規模は増えていく。プロ歌人というミッションは、短歌界を盛り上げるための、特有の成功の鍵だと考えている。

また、持続可能性を確保するためにも、市場を拡大するためにも、そしてプロ歌人の質と量を増やすためにも、短歌人口を増やす「普及」というミッションは重要だ。もちろん「市場」も大事である。これらは短歌に特有なミッションではないけれど、それぞれの具体的な戦術レベルでは特有の課題があると思っている。(そのあたりのことはまたいずれ)

さて、それぞれのミッションの妥当性や具体的内容について語ることも大事だと思うが、ここでは、このトリプルミッションモデルの中のミッシングピースについて触れておきたい。それは日本サッカー協会においては「理念」と表現されていた部分であり、上図では「?」と表現した部分である。つまり、これらのミッションを主体的に駆動していく存在が現状では不在なのだ。これが短歌界が抱える最も大きな課題といえる。

最も単純な解決策は、短歌協会のような中央集権的な組織をつくることだ。似たような組織は存在するようだし、つくれない理由もないだろうから、チャレンジしてみても良いかもしれない。草の根までカバーするような完全なピラミッド型組織は難しいだろうが、主要な結社が中心となって超結社的な組織を立ち上げることは可能だろうし、結社を介さない個人登録も認めるようにすれば、かなり目的に適った組織になると思う。

あるいは、何らかの理由で、そのような組織の設立が現実的でないのだとすれば、中央集権的ではないやり方で似たような機能を実現するという道もあるだろう。その際には、コミュニケーションの共通基盤となるプラットフォームの存在が不可欠になるはずで、それこそがまさにtankafulを応援する理由の核心部分なわけだ。

いずれにせよ、大事なことは、ある程度の影響力を持つ人たちが、同じ方向を向いて、継続的に努力するということだ。そのためには「共通の地図」としての全体感のあるモデルがあった方が良い。スポーツビジネスにおけるトリプルミッションモデル自体が仮説の域を出ないものなので、その短歌版であるトリプルミッションモデルの私案/試案は、たたき台以上のなにものでもないわけだが、何かしらの参考になればと思い、記事を書いてみた。

ちなみにこのアイデアを思いついたのは2012年6月ごろなのだけど、だんだんと機が熟しつつあるのかな、という感覚は持っていたりする。

ではまた。

人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月20日 (土)

【短考】tankaful.netリニューアルと短歌ポータルサイトへの期待

5890372575_c49da399f5_z
Some rights reserved by nachans

こんにちは。短歌界のデング熱こと僕です。
おひさしぶりです。

ヒトスジシマカに媒介されてあなたのところへ辿りつきたい・・・・・・。
そんな思いを冒頭のあいさつに込めてみましたがいかがでしょうか?

・・・・・・いかかがでしょうかじゃねえよって感じですか。そうですか。
でもこっちだってほんとうはそんな思いを込めていないので引きわけですね!

そんなこんなでオリジナル記事としては、ほぼ2年ぶりの更新です。

毎日がしあわせで相変わらず短歌をつくる気持ちにはなれないのですが、
短歌界隈の動きには興味を取り戻しつつある今日この頃。

そんな中でもぜひとも紹介したい動きがあったので記事を書くことにしました。
それは2014年9月4日にリニューアルしたtankaful.net(以下tankaful)というWebサイトについてです。


■tankafulとは何か?

Title_3

tankafulは光森裕樹さんが中心となって運営している短歌専門の情報Webサイトです。

詳しい説明はサイトの「tankafulについて」というページを読んでいただくとして、
構成で目を引くのは、短歌賞の情報だったり、各種短歌関連団体へのリンク集だったり、
短歌を趣味とする人が知りたい情報が充実しているところですね。

この手のサイトとしては、電脳短歌イエローページという伝説のサイトがかつてあったわけですが、

その発展形として、短歌のポータルサイトを目指しているのかなと思います。

ちなみに個人的にちょうおすすめの記事は、
ネット短歌史」というネットとその周辺の短歌史をまとめた記事です!
が、2014年9月20日現在はデータ移行作業中で閲覧できないようです。(ざんねん・・・)

他にも、イベント情報など、コンテンツは盛りだくさんなので、ぜひご覧ください。


■tankafulの意義

ところで、今回どうしてtankafulを紹介しようと思ったかと言うと、
このサイトが短歌界にとって重要な役割を果たし得ると考えているからです。

言うまでもないことですが、短歌というのはマイナーな文芸ジャンルです。

そんなマイナージャンルを盛り上げようと思ったら、

数少ない同好の士を効率よくマッチングしたり、必要な情報への導線を確保する仕組みが必要です。

あるいは、普及という観点で見ても、新たに短歌の世界に足を踏み入れた人が、
最初の目的地にする場所があるかどうかは、その後の定着率に大きな違いをもたらすはず。

そのために不可欠な要素が
共通の基盤となり得るメディア/プラットフォームな訳ですが、
現状そのような存在は見当たりません。

そのような現状にあって、最も有望なのがtankafulではないかと。

ちなみに、コミュニケーションプラットフォームである以上、
いわゆるネットワーク効果が働くわけで、
明確な勝利者として
(聞こえは悪いですが)ひとり勝ちしてもらうことは参加者のメリットにもつながります。


というわけでみなさんもtankafulを応援しましょう!


■マネタイズという課題

そんなtankafulですが、期待の大きさの反作用として、
乗り越えなければならない課題も大きいのではないかと思います。

プラットフォームとしての役割を果たすためには、
コンテンツの質はもちろん、高い更新頻度を保つことや、長期にわたる安定した運営を行うことが不可欠なわけですが、

それらを可能にするのは、何と言ってもお金なわけです。

つまり、tankafulの最重要課題は、ビジネスモデルの確立ということになります。

マイナージャンル特有の厳しい環境下でどのようにマネタイズできるのか?
もちろん光森さんは、そのあたりのことにも自覚的なので、その動向に今後も目が離せません。


■「やる」ことの価値

以上、外部からtankafulについて色々語ってきましたが、
最後に思うのは「やる」ことの価値の尊さについてです。

世の中にはアイデアを思いつく人はいっぱいいるわけですが、
それを行動に移す人は多くない。

だけど、行動に移さない限り、現実の世界は1ミリも良くならないわけです。

僕自身、なかなか行動に移せないので、
光森さんの行動、チャレンジそれ自体がほんとうに素晴らしいなと、記事を書きながら何度も胸をうたれました。


そんなわけでささやかではありますが、何らかの助けができればという思いでこの記事を書きました。


ではまた。



人気ブログランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年2月 | トップページ | 2015年3月 »