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2014年9月28日 (日)

【短考】短歌における私性と虚構について考えてみた

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Some rights reserved by Wally Gobetz
こんばんは。僕です。
今回は長いです。

そして文体が「だ・である調」です。
本当は「ですます調」に直したかったのですがご容赦を・・・。


■はじめに

タイムラインで虚構の是非についての議論が盛り上がっていた。 「短歌における虚構」についてはもちろん、その議論の鍵となる「私性」についても、全然理解できていないので、わかる範囲で整理してみた。整理した内容を踏まえる形で、議論のきっかけとなった件についても見解を述べているが、それ以上の意図はないことはあらかじめ断わっておく。
 
この記事の目的は、以下の素朴な疑問について、底は浅いとしても、考えをさらに深めることのできる、明快な一次回答を示すことである。 
  1. 私性とは何か?
  2. 私性と虚構とはどのような関係にあるのか?
  3. 虚構が問題にされることがあるのは何故か?
尚、この記事では、ふだんのスタイルとは異なり、脚注を多用している。その意図は、発展的な議論の呼び水とすることだ。


■私性とはなにか?
*1


私性については、佐佐木幸綱さんの次の説明がわかりやすい。佐佐木幸綱さんは「一人称」と表現しているが、これを「私性」と読み替えても問題はないはずだ。

一人称詩とは、一言で言えば、私小説のように作者が自分を主人公にして、自分の思いや行為を表現するという意味である。作中の<われ>=作者<われ>が原則だというのだ。

歌は一人称だというイメージ、歌は作者名とセットだというイメージ、あるいは枠組みが伝統の中でかたちづくられ、認知されてきたからである。文字通り短い歌である短歌は、基本的に一人称詩として読まれるという前提があって、成立しているところがある。読者は一人称詩という前提に立って、作者は男だとか、作者の年齢はどれくらいだとか、想像したり、周辺情報を動員したりして作品を読み進む。

佐佐木幸綱 『万葉集の<われ>』 角川選書 2007年

また、以降の説明の見取り図として、斉藤斎藤さんがツイートしていた、私性についての説明を以下に引用する。

「A~Dを同一人物が担当する」ということは、作品内の出来事=Dが実際に体験したこと(ノンフィクション)と解される。おそらく、私性は、より広義(フィクションにおける私性、など)に捉えることのできる概念だと思うが、ここでは狭義の私性を取りあつかっていく。



■私性の効果


短歌において何故私性が重視されるのだろうか。それは私性の持つ効果にあるようだ。ここでは、私性の効果として代表的なものに説明を加えていく。

1.独自性の獲得

<私>という唯一無二のフィルターを通すことで独自性が生まれるという考え。第三十二回現代短歌評論賞を受賞した寺井龍哉さんの『うたと震災と私』を参照するとわかりやすいかもしれない。以下に参考になりそうな部分を引用する。

本来多様であるべき私性が封殺されているという意味での類型が引き起こされている(中略)作中主体と作者自身が概ね同定される前提で詠み、読まれる現代短歌では、単なる価値観の成立に前後して生じる葛藤や懊悩、鑑賞や諸々の感情が作品に対他的な独立性を与えるからである。

2.写生の実現

写生という短歌の方法論を実現するためには、その前提としての私性が不可欠であるという考え。斉藤茂吉の提唱した「実相観入」について考えてみると納得がいくと思うが、ここでは割愛する。

3.作品評価の底上げ

この記事で触れるべきなのはこの効果である。この効果は「私小説」というより「ノンフィクションドキュメンタリー」が持っている効果に近い。ある種の作品はノンフィクションとして読まれることによって読者に与える感動が大きくなる。写生の実現装置としての私性を重視する人たちからすると、この効果を強調されることには抵抗があるかもしれないが、個人的にはこの効果こそが、現代において私性が保有する最も重要な存在価値だと思う。

とはいえ、どのような作品であっても作品評価が底上げされるわけではない。そもそも、どのような作品であってもノンフィクションとして読まれるわけではない。それを整理したのが下の図である。縦軸は「ノンフィクションとしての読まれやすさ」*2、横軸は「ノンフィクションとして読まれた場合の作品評価への影響度」*3である。

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赤枠で囲ったBのエリアが「本当にノンフィクションなのか」が議論の的になるエリアといえる。同じBでも、右上にプロットされる作品ほど激しい議論を引き起こす。Bにプロットされる代表的な作品は「挽歌」「戦時詠」「病床詠」などだろう。


■虚構と私性との関連

私性とはノンフィクションであることを内包しており、虚構=フィクションとは相反する概念である。ある作品がノンフィクションであることで底上げ効果を得ているのであれば、それがフィクション=虚構ではないこと、虚構ではないと読者が信じられることは必須条件といえる。あるいは、それが虚構であるにもかかわらず、ノンフィクションとして読まれることを期待し、ノンフィクションを装うのだとしたら、それは佐村河内守的な詐欺行為とみなされる可能性は高い。


■前衛短歌運動との関連

前衛短歌運動とひとくくりにできるのだとすれば、その特徴は「虚構性」だ。つまり、狭義の私性から短歌を解き放って、より自由度の高い作品を目指したわけだ。その結果として、前衛短歌運動は私性=ノンフィクション性がもたらす効用を手放すことになる。

また、前衛短歌を通過したことにより、私性文学=一人称文学であることは短歌の読みの絶対ルールではなくなった、というのが現代短歌の常識的な見解である。

一九五〇年代に塚本邦雄が先駆して始発した前衛短歌運動にベースを置く現代短歌も、大幅に<無人称>の<われ>を取り込んでいる。作中の<われ>は、かならずしも作者とイコールではない、というかたちである。 (中略)
短歌を、<一人称><無人称>両方の<われ>がうたえる詩として作り、そう読む。作者と読者の関係をそのようなかたちで制度化したことによって、現代短歌は不倫もうたえるし殺人もうたえるようになったのである。

佐佐木幸綱 『万葉集の<われ>』 角川選書 2007年



■未だに混在する読みのモード

とはいうものの、現実には「フィクション読み」と「ノンフィクション読み」というふたつの読みのモードは混在している。というよりも、実際にはノンフィクション読みする人の方が、今でも多数派である*4。とはいえ、これは「フィクション読み」する人もいればそうでない人もいるという属人的な問題ではない。状況によって人は読みのモードを変えている、と捉える方が正確だろう。読みのモードに影響を与える要因はざっとこんものがあるだろう。
 
  1. 作品の性質(明らかにフィクションであるもの、どちらに読んでも影響がないもの、ノンフィクションに見えるものがある)
  2. 読者の傾向(ノンフィクションとして読む=私性文学として読むことが絶対ルールとして身についている人、フィクション読みを絶対ルールとして適用する人、混在している人)
  3. 場の性質(ノンフィクション読みが支配的な場かどうか、など)
 
ともかく、様々な影響を受けて、人は読みのモードを選択する。そして、現在でも「ノンフィクション読み」という読みのモードは少数派ではない。このことは「現実」として抑えておく必要がある。もうひとつ大事なことは、今述べたような要因のうち、1と3はある程度人為的にコントロールできるということである。このことは、読みのモードを作り手側がある程度コントロールできるということを意味していると同時に、完全にコントロールすることはできない=読みのモードは不確定であることを意味している。


■読みのモードに優劣はあるのか

そもそも読みのモードに優劣や正しさがあるのだろうか。

それは目的や価値観による、としか言えない。ノンフィクションに引きつけて作品の価値を高めるような読み方、読ませ方が駄目であると、いついかなる時でも言えるのかというとそんなことはない。それは、その逆もまた同様だ。

文学理論を学ぶことで得られる(数少ない)効用のひとつは、唯一絶対の正解となるような規範が存在しないことを明らかにしてくれることだ。それは、作者の意図を絶対視することが間違いであるのと同様に、コンテキストを完全に廃した透明な評価も幻想である、ということを示している。

つまり、何が正しいのかという価値判断は、判断基準が明確に示されていて、議論する人の間で合意されていない限りは、どこまで行っても単なる価値観のぶつけあいで終わってしまう。読みのモードの正しさに関する議論も同様だ。


■『虚構の議論へ』で取り扱っている問題についての見解

さて、以上の整理を踏まえて、議論のきっかけとなった問題について見ていこう。ここで「問題」といっているのは短歌研究10月号にて、加藤治郎さんが『虚構の議論へ 第57回短歌研究新人賞受賞作に寄せて』と題した特別寄稿にて取り上げている問題のことである。

この問題は事実としては、選考委員が「ノンフィクション読み」していた作品が、実際には(選考委員が信じるほどには)ノンフィクションではなかった、という話に過ぎない。しかしながら、作者の作歌姿勢を問うような加藤治郎さんの先の特別投稿を受けて、作者を擁護する反論が生まれ、現在では「選考委員の読みのモードに問題があった」のか「作者の側に読みのモードを誤らせる過失があった」のかという犯人探しの様相を呈してきている。

しかし、短歌の世界において、どちらの読みのモードを適用するのが正しいのかは確定できない、ということは既に述べたとおりである。(フィクションであることは見抜けた、という人もいるだろうが、見抜けないことはあり得る、という点をここでは重視している)

一方で、ある作品がノンフィクションとして読まれるかどうか、ということも作者には確定できない。「フィクション読み」されることを想定していた作者が、「ノンフィクション読み」されることで過剰な評価をされた場合、作者に(少なくとも100%の)過失があるとは言えないだろう。

従って、「どちらが悪いのか」ということはこの問題の本質ではないし、それ故に、犯人探しの先に、この問題の解決策が生まれることもあり得ない。*5

この問題の本質とは、「受け手と作り手の期待する読みのモードが確定しない以上、ギャップが生まれる可能性を排除しきれない」という仕組みにある。従って、本気でこの問題の再発を防止したいのであれば、「どちらの読みのモードが正しいのか」という議論をするのではなくて、現実としてどちらの読みのモードも成立することを前提として、期待のギャップが起きないようにするしかない。単純に言ってしまうと、読みのモードが確定できるようなレギュレーションを設ければ良い。*6*7*8

具体的には「フィクション部門」と「ノンフィクション部門」を分けるとか、ノンフィクションによるかさ上げ効果の影響を受けないように、フィクション読みすることを評価ルールにするなどの対応策があり得るだろう。(加藤治郎さんが主張するように、著者プロフィールを完全にオープンにするのもひとつの手だろう。対策として不完全な割には弊害が大きいように思うが)

もし、そのような対策を取らずに、あくまでもフィクション/ノンフィクションが定まらない読みのモードの不安定さに価値を認めるのであれば、今回のような問題(なのかこれはそもそも?)が起きた時に、仕組み上不可避の出来事として、誰かのせいにしたりせずに、粛々と受け入れるべきだと思う。*9

尚、あるべきレギュレーションについては新人賞が何を目的とするのかに大きく影響されるだろう。(純粋に作品評価なのか、有望な作者奨励なのか、私Dも含めた総合評価なのか)  *10*11


■まとめ

私性と虚構に関してこれまで述べてきたことをまとめる。
 
  1. 狭義の私性文学であることで短歌にはノンフィクションによる底上げ効果が発生する(場合がある)
  2. 短歌の世界では前衛短歌運動を経た現在でも「フィクション読み」と「ノンフィクション読み」が混在している
  3. どちらの読みのモードが適用されるかについては、様々な要因の影響を受けるため、読者も作者も確定することはできない
  4. 正しい読みのモードなるものは目的と価値観が共有された場でしか存在しえない
  5. 今回の問題は、正しい読みのモードが共有されていない以上、いつでも起き得る
  6. 再発を防止し、無益なつるし上げを避けたいならば、単にレギュレーションを設ければ良い
  7. どのようなレギュレーションを設けるべきかは、賞の目的による
 
最初に掲げた目的に引きつけてまとめると次のようになる。
 


1.私性とは何か?
 
私性とは、A=B=C=Dであることを前提とした作品が読まれることであり、それは性質というより状態に近い。また、私性はノンフィクションという性質を内包している。
 


2.私性と虚構とはどのような関係にあるのか?
 
私性とはノンフィクションであり、虚構=フィクションとは相反する概念である。
 


3.虚構が問題にされることがあるのは何故か?
 
虚構が問題にされるというよりは、(現代短歌においては)虚構の真実性が問題にされるというほうが正しい。虚構の真実性が問題にされるのはそれが作品の価値評価に影響を与えるからだ。ただし、影響の度合いは作品の性質によって異なる。ノンフィクションとして読まれやすく、ノンフィクションとして読まれることで価値が高くなるような作品ほど、真実性が問題にされやすくなる。逆にいうと、その反対の性質をもつ作品の真実性が問題にされることは少ない。



*



例によって、限られた知識のなかでまとめているので、「このあたりの議論も踏まえた方がいいよ」などのアドバイスがあればぜひ。

今回の記事によって、僕のようなライト短歌ファンの見通しが多少なりとも良くなればうれしいです。

ではまた。




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■脚注(もし興味があれば)

*1
私性とは何か? ということについてのクリアな説明を求めて、色々な資料にあたったが、これというものにはついに行きあたらなかった。
大体の言説においては、私性がなにであるかを明確にしないままで、私性に関連のある他のことを論じている。あらためて定義することもないくらいに共通理解がなされている用語だと信じたいが、そういうわけでもなさそうである。私性は、簡単に定義できない深遠な概念なのかもしれないが、そうだとしたら私性に関連がある他のことを論じる時には、もっと明確で、論じたいことに直接的に言及できる「ふつうの言葉」を使うべきじゃないかとは思う。
ちなみにこの記事では私性はノンフィクションという性質を導出するためだけに登場してもらう。虚構との関連をノンフィクションという性質との対比で示すためだ。

*2
「一人称ないし人称が省略されている」「取扱う内容が現実的に起き得る」「ノンフィクションであることに価値がある内容である」あたりがノンフィクションとして読まれやすい要件だろうか。

*3
ノンフィクションっぽいものが実はフィクションだったとわかった時(あるいは見抜かれた時)の価値評価に対する影響もざっくり2つくらいはありそうだ。(1)単に作品の評価が下がる(アラウンドかさ上げ分が低下) (2)価値評価が裏返る(好き⇒嫌い) 

*4
本当だろうか。年代差も大きそうである。

*5
ノンフィクション読みが正当であると確定することは可能だろうか? 特に新人賞のような場において? それが不可能であれば、(1)可能であるようなレギュレーションにする か (2)不可能であること前提に (2)-1 だまされることを許容する もしくは (2)-2 ノンフィクション読みをきっぱり廃するしかないのかもしれない

*6
この手の割り切った意見がコアな短歌の人たちに受け入れられにくいことはさすがにわかりはじめたマイレボリューション。

*7
ノンフィクションによるかさあげ効果を虚偽によって得るのはずるいという主張と同じように、実際に体験した壮絶な体験を作品として活かすことでかさあげ効果を得ようとしているのに、それをできないようにする読みのモードに固定するのはずるい、という主張も成立するのではないだろうか。
作品そのもので勝負しろ、というのはテキストを絶対視する立場においてのみ有効な正論に過ぎないし、それは理想論であって現実ではないという反論も有効だろう。(一方で、程度問題に過ぎない、という理解も重要)
となると、やはりレギュレーションで明確にする一手ではないだろうか。しかしその場合のフィクションとは何を指すのだろうか?(出来事?) またどの程度まで厳しく見られるのだろうか(黒い車と書いたが実際はグレーだったらOUTか?)
ということまで踏まえると、レギュレーションを示すことは現実的といえるだろうか? あるいは主要なモチーフ(父の死など)のレベルでのレギュレーションであれば現実的だろうか?

*8
そもそも読みのモードを完全に一致させることに血眼になるべきなのか、という疑問も残る。作品というのはそもそも色々な読まれ方をされる宿命にあるものだ。しかし、現実的に問題が生じていて、その問題が解決するべきものだと考えられているのであれば、きっちり原因を突き止めて、有効な対策を取るべきだ。

*9
もっと言ってしまうと、誰かがこの問題=セキュリティホールをついて、佐村河内守的詐欺行為を働いたとしたら、もちろんその作者に責任があることは間違いないけれども、セキュリティホールを放置しているという意味で、運営側も責任を免れることはできない、という話である。性善説にたって、作者の良識に委ねている限りは、悪意のある攻撃からシステムが守られていること=「正当な」作品評価が担保されていることは保証されないのである。

*10
Twitter上での意見にもあったが、
・読みのモードによって不当に評価を得ていたかということ、
・不当に評価を得ていたとして受賞に影響があったかということ、
・読みのモードを選考委員が間違えたことに関して作者に責があるのかということ、
 
は少なくとも分けて議論したほうが良いだろう。

*11
自分が作者の立場だったら、こういった出来事から何を教訓とするだろうか?
リスクを回避するためにフィクション/ノンフィクション読みを確定できるような作品づくりをするべきと考える?
最も理想的な回答は次のようなものなのかもしれない。
 
「どちらの読みのモードが採用されたとしても、他の作品を圧倒するレベルの作品をつくって、本当にノンフィクションなのかどうかなんてつまらないことが争点題にならないようにすべき」


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